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 第16回「南極の歴史」講話会 (2014年6月21日)
   - 宗谷航海記 -


★宗谷航海記
 高尾一三
(第1次、2次、3次宗谷航海士)


 
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 2014年度南極 OB 会総会・ミッドウィンター祭の冒頭に、第16回「南極の歴史」講話会が開催された。南極 OB 会では現在、「宗谷航海記」の発刊作業を行っており、前半は発刊作業で得られた資料を紹介するフィルムライブラリー「写真で見る宗谷時代」が上映され、後半は、執筆者の一人である高尾一三氏(第1次、2次、3次宗谷航海士)により「宗谷航海記」の講演が行われた。


宗谷航海記
 高尾一三  (第1次、2次、3次宗谷航海士)

第 1 次の航海
 昭和 31(1956)年 11 月 8 日、南極観測船「宗谷」は南極大陸プリンスハラルド海岸に向け、晴海ふ頭を出港した。岸壁には約 5000 人が手を振り、声をあげ見送った。途中シンガポールに寄港し 12 月 19 日ケープタウン港に到着した。ケープタウンでは、約 2 か月分の燃料、水、食糧を搭載、海鷹丸と共に 29 日、南極大陸に向け出港した。
約 1 週間の暴風圏を無事通過、1 月 7 日南極大陸の氷縁に到着した。その後「宗谷」は流氷が船体に与える影響等をテストしながら西方へと進み、14 日クック岬沖に到着した。ここでセスナ機が飛び大陸の調査、基地設営場所の調査が行われた。この日は日本の航空機が初めて大陸の上空を飛んだ記念すべき日となった。その後「宗谷」は東に進路を変え東経 40 度線に向った。
この線上には基地候補地が予定されている。16日到着、直ちにヘリコプターが飛び、その報告によるとセスナ機の飛べる開水面A を発見したとのこと、「宗谷」は群氷域に突入、開水面を目指して南進した。16 日午後開水面に到着、ここでセスナ機が飛び氷状調査を行い、18 日再び、セスナ機による調査を行い、東西に広がる開水面(大利根水道)B を発見、それよりさらに南に続くリードC 等を発見した。18 日「宗谷」はヘリコプターの誘導により、氷山をう回し、密群氷を避け大利根水道を進み、19 日その西端では本格的な砕氷を行い、それに続くリードを進んだ。突入後は平穏な天気に恵まれ、またクック岬の外洋付近に位置する海鷹丸から送られてくる気象状況は「宗谷」の行動にとって大きな力となった。

 1月 24日、大陸から続く定着氷(厚さ1.6m)に無事接岸した。接岸後は犬ぞり隊、雪上車により約 158 トンの資材を運び、昭和基地を設営し 11人の越冬隊員を送ることができた。
 2月 15日離岸し、一路開水面を北上したがやがて密群氷に会い、待機となる。17 日以後は密群氷に阻まれ「宗谷」は自力脱出することが出来ず苦闘する。19 日船内には「宗谷」の「越冬問題」が話し合われ船内は重苦しい空気につつまれた。その空気のなか脱出のため外国砕氷船の支援要請となり、ソ連の“オビ号”が本船に向った、28 日「宗谷」は“オビ号”の支援を受け無事氷原を脱出、ケープタウンに向った。(図1)

第 2 次の航海
 2次の航海は 1 次と比べると天候は不良であった。12 月 20 日氷縁に到着、その後ビーバー機による氷状調査を出来ず 26 日氷海に突入した。しかし密群氷に阻まれ、前進・停止・爆破を繰り返し前進を試みたがついに 31 日の低気圧で「宗谷」はビセット状態となり、西方クック岬付近まで流された。ついに南緯 68 度線を超えることは出来なかった。

 2月 1日、左舷推進器を折損する事故が起きたが 6 日氷海より自力脱出した。7 日、アメリカの砕氷船“バートンアイランド”号と会い、その支援をうけ南進を試みたが氷状悪く、基地に接近することが出来なかった。10日、11 日セスナ機により 1 次越冬隊員を「宗谷」に収容、その後天候の回復を待ったが、ついに 2 次越冬隊員を基地に送ることが出来なかった。残念、15 匹の犬を基地に残すことになった。(図 2)

考察:流氷と風向との関係
 リュツォ・ホルム湾の流氷は主に風により左右される。東寄りの風は流氷を湾奥へ押し込み、南寄りの風は北方へ拡散する。この表を見ても 1 次は南寄りの風が多く1 次は恵まれた天候であった。
 これは大陸の極冠高気圧のリュツォ・ホルム湾への伸張が弱くポーラーフロント(寒帯前線)を通る低気圧がしばしば南下し氷縁に存在する南極前線に合流するためであろう。
 「宗谷」の砕氷能力(1.2m)はリュツォ・ホルム湾の氷に対しては弱い。望むのは「南風」である。「南風」は「宗谷」にとって流氷の扉を開く“Key”である。

<南極OB会報 第23号から引用>