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 第15回「南極の歴史」講話会 (2014年3月29日)
   - セールロンダーネ山地とリュツォ・ホルム湾の話 -


★セールロンダーネ山地の地理・地形と調査史
 岩田修二
(26次夏、32次夏、地形調査担当)


 

★リュツォ・ホルム湾氷海の脅威
 茂原清二(40, 41次「しらせ」艦長)

 
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  2014年 3月 29日(土) 14:00~16:00日本大学理工部( 1号館 121 会議室) 話題は、「セール・ロンダネ山地の理形と調査史」岩田修二氏( 26 次夏、 32 次夏、 地形調査担当)、「リュツォ・ホルム湾氷海の脅威」茂原清二氏( 40、41次「しらせ」艦長) の 2題の話題を提供いただきました。


セールロンダーネ山地の地理・地形と調査史
 岩田修二 (26次夏、32次夏、地形調査担当)

 セール・ロンダーネ山地は、昭和基地の西約700kmの東経22〜28度、南緯71.5〜72.5度にひろがる、東西220km、南北100kmの大山地である。北は200kmで南極海(ブライド湾)に至り、南方の高さ3000mの高原氷床をダムのように堰き止めている。多くの地塁状山塊から構成され、山塊の間を貫いて高原氷床から氷河が北流する。標高2500mを超える多くのピークがあり、最高峰は2996m、合計の露岩面積は2300㎢(東京都より広く神奈川県より狭い)である。山地は、北麓の島状ヌナタク帯、北半部のアルプス型山岳帯(急峻な山岳が多く針峰群を含む)、南半部の台地状山岳帯(雪氷に覆われ緩やかに氷床面に続く)、南側の高原氷床の氷冠ヌナタク帯、東端部の氷食丘陵帯(バルヒェン)に大きく5区分できる。

 1937年2月6日ノルウェー探検隊の航空機が氷床中に露岩山地を発見し、母国のロンダーネ山地にちなんで南(セール)ロンダーネ山地と命名した。国際地球観測年を契機に1958年〜1961年、1964年〜1967年にはベルギー隊とベルギー・オランダ合同隊によるロア=ボードワン基地での越冬、山地での学術調査がおこなわれた。

 1981年からJARE(日本南極地域観測隊)による空中写真撮影、その支援を兼ねた昭和から山地東端までの偵察トラバース旅行、「ふじ」によるブライド湾偵察などがおこなわれた。初代「しらせ」の就航にあわせて1983年のJARE-25次隊から本格調査が始まり、1991年末(JARE-32次隊)まで、夏隊による山地と周辺部での地形図作成や、地学調査、あらたに建設されたあすか観測拠点での越冬と超高層・隕石・生物など多分野の観測・調査がおこなわれた。

 2003年頃から、ベルギー隊がセール・ロンダーネ山地に新基地を建設するという動きがドローニングモードランド航空ネットワーク(DROMLAN)の設置と共に進み、2004年11〜12月のベルギー新基地設置偵察(ベルギー隊と共同)の後、2007年〜2012年にはJARE-49、50、51、53次地学調査隊が派遣された。これらは、DOROMRANを利用したスノーモービルと軽量テントによる長期間の地学野外調査であった。

 山地北側の標高800〜1500mの氷床には小ヌナタクが散在している。その一つのシール岩近くにあるあすか観測拠点は強風と多積雪に悩まされた。山地東端にあるバルヒェン山塊は全体が氷床の面的削剥を受けた低い露岩帯である。その中には深い氷食谷が刻まれている。バード氷河の西側を占める山地東部のベルゲルセン山塊には針峰群がある。その中のホルナ峰2427mは1997年1月にノルウェーの登山家によって登頂された。
 山地中央部のメーフィエル山塊では広い氷食谷がドライバレーをなしている。ブラットニーパネ山塊はあすか観測拠点から近いので詳しく調査された。低所には凍土現象が広く分布し、融解・再凍結した氷が多くみられるが、高所は乾燥したサバク環境である。山地中央部からグンネスタ氷河を隔てた西側の山地には高くどっしりした山塊がある。ビーデレー山塊最高峰(2996m)は2007年1月ノルウェー登山隊に登頂され、第2峰村山が岳(2980m)とビキングヘグダ山(2751m)は、それぞれ30次隊と31次隊に登頂された。山地西部にはテーブル型の台地が多くニルスラルセン山は厚い堆積物を載せている。
 山地の南側にある高原氷床(ナンセン氷原)へは、山地を貫く氷河のどん詰まりがクレバス帯になっているので通過できず、高原氷床の上に出るためには山地西側を大回りする必要がある。高原氷床の裸氷帯では多くの隕石が発見された。

 1985年から始まったJARE-26次〜32次夏隊による5万分の1地形図作成作業や地学調査はおおきな成果を挙げ、2007年以降のJARE-49〜53次隊にひきつがれ、現在も調査が続いている。

<南極OB会報 第22号から引用>



リュツォ・ホルム湾氷海の脅威
 茂原清二(40, 41次「しらせ」艦長)

 我が国の南極観測船が過去半世紀、昭和基地沖の氷海内において海氷との壮絶な格闘の中、様々な脅威に晒されてきましたが、特に約35年前、私が「ふじ」航海士として勤務した折に遭遇した第19次行動時の「ふじ」の漂流事案についての話を致します。

 昭和52年11月25日、東京港晴海を出港した「ふじ」は、途中フリマントル経由南極に向け、暴風圏内を木の葉のように片舷40度以上も傾けながらも一路南下、竜宮岬沿岸調査支援を実施の後、昭和基地に向かいました。

 海氷は、大きくは定着氷(海岸に接して形成された定着している海氷)と流氷(定着氷以外の全ての海氷域を含める広義の用語)とに分かれ、更に流氷は氷縁氷域(海氷が海洋との接する氷域)と本日の話の主役であり、最も脅威となるずれ氷域とに分かれます。

 ずれ氷域は、沖合の流氷が陸岸に向かって動くと“ずれ”、“収束”、“氷脈化”を起こす乱氷帯であり、特に氷縁氷域とずれ氷域との境界線では氷域境界における段差は水面上だけでも4~5mにもなり、氷縁氷域の流氷は風向により常に変化するものの0.1~0.2ktで西側に流れ、第35次行動時、先代「しらせ」でも、境界線突破に15日間もの日数を強いられておりますが、第19次行動時に、「ふじ」が行動の自由を奪われ、一昼夜に及ぶ漂流を余儀なくされた定着氷域とずれ氷域と境界線においても、氷縁氷域とずれ氷域との境界線に似た現象が生じます。

 年も押し迫った昭和52年12月29日、「ふじ」は竜宮岬沿岸調査支援の為、現地時間17時15分、密群氷域に入り、翌30日には竜宮岬沿岸調査支援を実施しつつ大利根水道(分離帯水路)が開いていることを航空偵察で確認し、大利根水道を利用して昭和基地近接を図るべく更に南下を続けました。

 31日、大利根水道に「ふじ」は入ることができたものの、水路の一部が既に閉塞しており、6時26分には2つの氷盤の接点に阻まれ「ふじ」は航行不能となり、氷盤の接点を爆破し突破を図ろうとしましたが、爆破後には2つの氷盤の接点が再び盛り上がり、それ以上の爆破作業は危険な状況と判断、氷盤の爆破を断念し、その場に待機していましたが、その後、14時28分、氷盤が徐々に自然と離れ、航行可能な状態となり、砕氷航行を再開しました。

 砕氷航行を再開した時には風は北よりに変わり、大利根水道は狭くなっており、艦長は氷山附近でビセットされ氷に閉じ込められることを懸念、定着氷に窪みをつくって係留、氷状の好転を待つこととし、18時33分に定着氷縁に係留しました。
 当初は定着氷内に艦がスッポリ隠れる様な窪みを作りたかったものの、定着氷縁の氷厚は3~7mと厚く、積雪も約1mありました。
 悲しいかな様々なデータを分析しても「ふじ」の砕氷能力では1.5m程度の氷厚が太刀打ち出来る氷の限度であり、結局は当初の意図と大幅に異なり、定着氷縁に十分な窪みを作ることも叶わず、僅かな窪み(その後遭遇したずれ運動に対しては、頭隠して尻隠さず状態)での係留となりました。

  1月1日、2日ともに流氷域の氷状に好転の兆しは見えず、「ふじ」は引き続き同係留地点で待機を続行していましが、翌3日、乗員及び観測隊員が皆寝静まった深夜2時30分頃、東北東の風が急に強まり、その後、大利根水道の流氷も次第に詰まってくると同時に、鉄砲水の如く西側に流れ始めました。

 「ふじ」はブリザードの中、約10時間係留地点で一生懸命踏み止まりましたが、次第に係留状態が不安定となり、12時13分、流氷域に押し出されました。 この時点では既に、船底も全て氷に覆われ機械も舵も効かない、動かしたくても動かせない状態で、更に氷の圧力で流氷域側に最大約17度も船体を傾けさせられながら0.3ktの速さで漂流を始めました。
  「ふじ」は流れの遥か11km先にある巨大な氷山に向かって艦を傾けたまま流されましたが、その氷山をギリギリでかわし(流されるままに身をまかせ)、氷山の裏側に押し流され、その淀みで態勢を立て直すことができました。

  流氷に翻弄されて艦が無傷で済むはずもなく、漂流中に氷と接触した鉄製の突起物は水飴の如くグニャと曲がり、固い氷の恐ろしさをいやと言うほど思い知らされましたが、最大のダメージは、左舷推進軸(木の幹のように太い鉄の固まり)を約7cmも湾曲させた事であり、氷とは、それほど大きな力を秘めており、決して侮れるものではありませんでした。

<南極OB会報 第22号から引用>