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 第12回「南極の歴史」講話会 (2013年3月30日)
  − 最新南極情報と第8次越冬隊物語 ー


★南極最大の大気レーダー”PANSY”で地球大気を探る
 堤 雅基
(第40次越冬,第49、50夏)

しばらくお待ちください。

★八次越冬−思い出すままに
 星合孝男
(第7次夏,第8、11、16、23越冬,28夏)


 案内資料:案内資料  当日の写真:写真を見る

 2013年3月30日14時より、日本大学理工学部1号館132号教室で、第12回目の「南極の歴史」講話会が開催された。
 当日の話題は、40次越冬隊、49次・50次夏隊、52次越冬隊に参加した国立極地研究所堤雅基氏より南極観測最新報告として「南極最大の大気レーダー”PANSY”で地球大気を探る」を、また、今回新たに各隊次の記録シリーズをスタートし、7次夏隊、8次・11次・16次・23次越冬隊、28次夏隊に参加した星合孝男氏から「八次越冬−思い出すままに」のテーマで話題提供いただいた。


★ 「南極最大の大気レーダー“PANSY”で地球大気を探る」
      堤雅基(40次越冬、49・50次夏、52次越冬)


 現在、昭和基地では、甲子園球場とほぼ同じ面積に高さ3mほどのアンテナ1000本以上を並べて、地表付近から高さ500kmまでの風速やプラズマを詳しく調べることのできる南極史上最大のレーダーが整備されつつある。
 地球大気中の大きな大気の流れ(大気大循環)の出発域や終着域として重要な位置にありながら、アクセスの困難さから観測が立ち遅れている南極大気の精密観測がその目的である。また極域は人間活動の影響が顕著に現れる場所でもある。大循環により極域に運ばれたフロンガスはオゾンホールを作り、また夏極の非常に高い所(85kmくらい)に現れる雲(極中間圏雲)も産業革命以降の人類活動の影響ではないかとされるなど、南極観測の重要性はますます高くなっている。
 PANSY計画(代表:東大佐藤薫教授)は、この大型レーダ(PANSYレーダー)による精密観測を軸として、他の相補的な電波・光学装置の観測や高度な計算機シミュレーション、さらに理論研究なども組み合わせた総合的な研究計画である。計画の立ち上げは2000年、以来、現在東大、極地研、京大所属の研究者を中心に研究面・工学面・設営面から検討を進めてきた。そして2009年に本計画は予算措置され本格的に動き始めた。計画の詳細については是非、http://pansy.eps.s.u-tokyo.ac.jpをご覧いただきたい。
 これまでの10年以上の道のりは山積する課題を一つずつ地道につぶして行く日々であった。厳しい自然環境下にあってアクセスも困難であるので、物資輸送能力・発電能力・作業期間・作業人員のいずれにも制約が多く、しかも南極環境への最大限の配慮が重要であった。送信機は携帯電話などに使われる最新の省電力技術を応用して新規に開発し、アンテナは幾度も試作と現地試験を繰り返して軽量かつ組立簡単でブリザードの強風にも耐えるものを作り上げた。さらにアンテナ基礎は短期間で設置できるよう、掘削機で地面に直径約10cm・深さ1m程度の孔を開けてコンクリートなどは使わず埋設する方式とした。また何年にもわたる現地調査と地形測量を経て迷子沢の一角が建設地として選定された。
 52次隊により2010年12月に開始された建設作業は昭和基地史上最短の日照時間(1月)という悪天候も影響して大変苦労し(52次隊における詳細は会報第14号の拙稿参照)、また続く53次隊と54次隊では2年連続のしらせ接岸断念による物資輸送の大幅制限を受けるなど、南極の自然状況はここ数年かなり厳しい。しかし、PANSYレーダーは従来からのお椀一体型レーダーと違って多数のアンテナに分割した柔軟性の高いシステムであり、積雪の影響を考慮した一部アンテナの移設や、部分システムによる運用など、状況に応じて対応を行っている。現在までにシステムの半分以上が完成し、2012年の4月末からは1/4システムによる連続運用を行って良質で貴重なデータが蓄積されつつある。全システムの整備完了まではもう少しというところである。ここまで超人的努力を惜しまず作業に従事・支援いただいた多くの方々に感謝したい。


★ 「八次越冬−思い出すままに」
    星合孝男(7次夏、8次・11次・16次・23次越冬、28次夏)


 1965年南極観測が再開され、7次隊の手に依って昭和基地が再び息を吹き返した。新造の「ふじ」は、4,900トンの「宗谷」の2倍に近い8,600トンと大きく、砕氷能力も優れていた。何よりも輸送用のヘリコプターを2機搭載していたことも、輸送力を飛躍的に増す上で有効であった。これら能力向上の結果が、観測事業の発展をもたらしたことに、異論はないであろう。これに加えて、7次から11次の間の海氷条件が、観測隊の夏期行動に味方した事も事業の発展を支えてくれたと、私は考えている。7次「ふじ」が昭和基地へ接岸したのは、夏作業が始まろうとする1月27日夜であったし、11次では帰途氷海にビセットされるという事態に遇った。しかし、「ふじ」は5年続けて、基地に接岸できたのである。
 7次の7棟に引き続き、8次では6棟の建物を建てた。この中には高床式の観測棟と放球棟があった。鉄骨を組んだ櫓の上に木造パネルの建屋を建てたもので、かがめば建屋の下を通り抜けることができた。風が吹き抜けるので、風下側に雪の吹き溜まりができないようにと考えられた構造で、この目的は達成された。観測棟は面積138uで、4つの個室と超高層物理の幾つかの分野の観測を行なうスペースを持ち、観測の充実に大きく貢献した。
 また、新しく建てられた食堂棟も96uと広く、サロンスペースがあり、食堂としてだけでなく会議、娯楽等の場として、越冬生活の質の向上に役立った。その他、再開前の観測・居住棟にも補修・改修が施され、研究スペースとしても居住スペースとしても質的向上が図られた。しかし、居住スペースとしての専用の建物が建てられたのは、9次になってからである。放球棟ができて高層気象観測用のバルーン飛揚が安全・容易になったばかりでなく、7次で始められた大気層中のオゾン観測も継続された。また、7次で建てられた電離棟では、充実した電離層観測だけでなく、昭和基地郵便局の機能も続けられていた。8次で改修されたCB棟(C:Chemistry=化学、B:Biology=生物)では、大気中の二酸化炭素の連続測定や、地球化学、生物の採集試料の分析、細菌の培養などが行われた。地学棟(G棟)では、地球物理定常観測と地理の試料研究が行なわれた。また、この棟の一角は医務室として利用された。
 幸い8次では地球化学、生物、地理、雪氷学の研究者は、それぞれの分野では1−2名と小人数であったが、お互いが協力することで昭和基地周辺の野外調査・研究を進めることができた。そしてこの経験が、マラジョージナヤまでのオラフ海岸の調査にまで発展したものと思われる。
 8次のもう一つの課題は、9次で計画されていた南極点旅行の予備的な内陸旅行を実施することであった。8次内陸旅行隊は、1967年11月5日に出発し、12月14日プラトー基地に到着、19日に同基地を離れ、1968年1月13日に基地対岸のF16地点に到着、「ふじ」のヘリで1月15日昭和基地に帰投した。ルート整備、燃料等のデポを終え、その任を果たしたのであった。
 昭和基地再開直後の建設、観測、研究、生活の各方面での、発展期の一時期を担った8次越冬であった。最後は4次で遭難した福島紳隊員の御霊に、4次のお仲間で8次越冬に参加された何人かと一緒に、お供えすることで終わった。

<以上、南極OB会報 第19号から引用>