第10回「南極の歴史」講話会 ”宗谷時代”から”ふじ時代”へ (2012年6月23日) |
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★6次隊、昭和基地戸締りの顛末
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★7次隊、本格観測の幕開け
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★南極再開の裏話
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案内資料: 当日の写真: 第10回目の話題は、1962年に基地をいったん閉じた第6次隊から1965年に第7次隊が再開に至る歴史をひも解こうとするものである。6次隊を代表して柿沼清一氏が、7次隊からは国分征氏が講演した。その後、中断期間に再開へ向けてどのような努力がなされていたかを、元NET 報道部の中尾正武氏から聞き、出席のOB 達から「あの時はこうだった」という状況が披露された。 ★「6次隊、昭和基地戸締まりの顛末」 柿沼清一(2次夏, 3次夏, 4次夏, 6次夏, 9次冬) 第6次隊は、基地の撤収作業が主な任務であるので戸締まり隊と呼ばれているが、宗谷時代の締めくくり的な大きな観測も行っている。6次隊の主要な任務を挙げると、 1.第5次越冬隊の収容 2.基地の閉鎖 3.一部器材の撤収 4.35°E〜45°Eの沿岸地域の航空写真撮影 5.重力振子による重力測定 である。この方針にもとづいて作業が進められたが、近い将来、昭和基地再開を前提に撤収作業を行うように告げられていた。 撤収作業と同時に、空輸機動力が全面的に航空写真撮影に向けられ、また、2次隊から懸案の昭和基地における重力振子による測定が主要任務挙げられており、遅まきながら、測地部門も締め括りができる。まさに「6次隊」様々の気分であった。6次隊の構成は総人数18名で通常は越冬隊を含め36名程度であるのでずいぶん少なく感じる。空輸量が少ないとは言え,基地閉鎖作業、生活基地設営に関する多様な作業の分担など設営担当隊員は苦労したと思う。基地から撤収する機材も多いので、宗谷で機材を受け取る隊員をこの18名の中から出すことは難しかったのではなかったかと思う。基地での諸作業、宗谷での機材の受け取り、梱包など第5次越冬隊の全面的な協力を必要とした。 (撤収作業) 私の撤収作業の担当は、地磁気・高層物理関係の残留観測機器の観測項目ごとに梱包格納である。観測項目ごとに梱包格納の予定であったが観測室が狭い上、観測機器、測定器、工具材料など各所に分散している。国内で、小口さんと、越冬用の機材を選んだとき、何でも持って行こう、材料があれば何とかなる。と、壊れかかった時計まで入れたことを思い出した。一寸した観測器は手作りする時代でもあった。 観測項目ごとの梱包は効率的でないので目の前にあるものから手当たり次第梱包し表面に名称を記入するようにした。器機は梱包材料でくるみ電気掃除機でエア抜きをするという簡単な方法である。梱包した観測機等は観測室の2段目以上の棚と,11号個室のベットに格納した。使用不能と思われるもの、整理中に壊してしまったものはそのまま通路においた。ラジウムコレクターは、宇宙線のニュートロンソウスと共に犬小屋の通路においた。何年か後に来る観測隊員はこの器機を使うだろうか、使うのであれば、ここで測定していた状態のままを保存しておいた方がよかったのではないか、器機を片付けスペースができた観測室を見てそんな感じがした。 (航空写真撮影) 従来の経験からして、セスナ機の氷上発着基地付近の海氷面が固くてパドルも発達せず,天候も比較的安定している12月が最適と考えられた。しかしその時期に活動できるように速く氷海に到達すると、基地の近くまで宗谷が侵入することは困難が予測されるので12月後半には氷海に到達するようになればと考えていた。そのころ、往路の寄港地をダーバン経由にすれば3日程度短縮できるという案もあると聞いたが、重力測定には往復ともケープタウンに寄港し、観測に最低5日が必要条件であるのでこの案は問題にならなかった。 12月23日、氷縁到着、1月5日、基地まで115海里の地点を空輸拠点とする。1月6日から航空機・撮影機材・要員等の空輸し、航空機の組立て、滑走路の整備をおこなう。第1回の飛行は1月15日、14時〜17時、プリンスハラルド沿岸地域の撮影を行った。その後撮影飛行条件は極めて良好で、一部に上層雲の範囲もあったが殆どが快晴で、風力もやや強い場合もあったが、5m/s 程度の日が多く偏流測定も不要の場合が多かった。 1月24日、航空機の時間点検の際、発電機ベルトの損傷が発見されたため、飛行を中止し、予備品空輸を待ったが基地撤収までに間に合わなかった。そのため、第10回目に予定されていた355°〜37°区間と、昭和基地近傍の撮影は中止した。 基準点測量については,観測隊の行動範囲拡大とともに沿岸域を広く覆う小ないし中縮尺地図作成のために多くの基準点が設けられた。基準点測量は露岸単位で、太陽による天文測量とその近傍に基準点網を設置するもので、これらの基準点網を結合し、昭和基地の天測点を基準にした網構成型が望まれ、又、基準点網ができなければ、沿岸地域の中縮尺の地図作成に大きな影響を及ぼすことになる。しかし、三角測量では、海氷上に測点を設置する必要が生じるなど、三角網の構成は難しかったが、第4次観測以後の、電磁波測距儀の活用により、長距離の距離測定が可能になった。この電磁波測距儀により露岸相互の座標が結合され高精度の基準点網が構成されるようになった。 第6次観測までの実施量としては、垂直写真撮影区間総延長1700kmあまり、天測点を含む基準点設置点数は29点に達した。第6次観測で東経30度〜東経45度の沿岸域が垂直写真で覆われ、また、骨幹コースを評定するための基準点は一応必要量まで設置された。ここで日本隊の活動舞台たる沿岸域の10万〜20万分の1 図化が可能と成った (重力振子による重力測定) 1966年の南極会議及び国際重力会議の両会議において重力振子による昭和基地の重力測定が決議されている。Cape Town の重力値は第2次観測等で十分な精度で求められているのでCape Townを基準として昭和基地の重力値を重力振子を用いて求めるものである。往路のCapeTown における測定は宗谷の入港中の短い期間であったが順調に測定することができた。Cape Town の測定点は国際的な比較観測が行われているTrigonometrical Survery Office Room No25である。 昭和基地の測定は,従来、ウオルドン重力計で測定されていた。天測点は重力振子による測定には不向きのため,富士見の間入り口から20mの露出している岩盤上を重力基準点として採用した。今回新設された昭和基地重力基準点は,重力値も十分な精度で求められ,露出岩盤に設置された数少ない永久的重力基準点の一つとして、南極地域の開発に十分役立ちうるものである。 ★「7次隊、本格観測の幕開け」 国分 征(7次冬, 13次冬, 18次夏, 32次夏) 南極観測事業の再開 1962 年5月学術会議は、I QSY(International Quiet Sun Year 静かな太陽観測年)への参加を目的とし、南極観測の恒久的国家事業として再開することを勧告した。1963年8月20日には、学界の一部からの根強い反対があったが、学術会議も防衛庁の協力を求め、観測船と航空輸送の担当は防衛庁とすることとなった。これにより南極観測再開が閣議によりが決定された。 再開に当たっての基本的な方針としては、定常観測として恒久的に継続実施しうる体制(現業官庁)をとり、研究観測は広く学界に解放し高度の学術研究を行う形となった。1965年には、1)ロケットによる超高層物理観測の実施 、2)南極点往復調査旅行の実施、3)大陸内部の調査拠点の設置、および観測用航空機の昭和基地配備等を早期に実現を期する、とする基本方針がとりまとめられ、これを観測再開後の指針とすることが決定された。 第7次隊の概要 再開第1年度の第7次隊の観測概要としては、主な設営作業として、基地復元作業、発電機と通信等の更新、雪上車実用試験(KD601)が決まり、重点研究観測として、超高層物理部門、生物部門および海洋部門の3つ部門が取り上げられた。 超高層物理観測では、低周波自然電波、地磁気脈動、オーロラ電波雑音、宇宙電波吸収、オーロラフォトメタ−、分光測光、オーロラレーダーなどの研究観測が加わり、定常観測としては、全天カメラ、磁力計、垂直打ち上げ電離層装置が整備された。生物部門では、昭和基地周辺の生態学的調査(コケ群落、微生物の生態)、大陸の土壌細菌、大気中の微生物調査、船上観測としては、プランクトン、海底の生物調査が行われた。海洋部門では、海洋物理観測と昭和基地における潮汐観測が実施された。気象観測では、自動気象観測装置、自動追跡高層観測装置が導入され、高層大気の熱的構造の特別観測(オゾンゾンデ、放射ゾンデ、露点ゾンデ)も計画された。なお、7次隊の出発に先立ち、1965年1月には、ソ連の援助により松田(第5次)、木崎(第4次)の両氏による昭和基地視察が行われた。 第7次観測隊の予定記録と題する、第7次南極地域観測村山隊長による記事が「極地1」(日本極地研究振興会1965年8月)に掲載されている。この村山隊長の予定記録によると、定着氷接岸は ‘66年1月13日とされていたが、’65年12月31日には定着氷に着き、正月早々から作業が開始された。これは「ふじ」の砕氷能力とともに、氷状が良かったことにもよると思われる。この氷状は、逆に新型雪上車(KD601)の輸送に影響を及ぼした。当初は氷上輸送が予定されていて、オメガ岬などが偵察されたが、海氷状況が輸送には適さなかったため断念、結果的には「ふじ」の昭和基地接岸後に揚陸された。KD601を除くほとんどの物資は定着氷接岸地点から空輸され、その後に「ふじ」は初めて昭和基地に接岸した。 主な建物の新設は、発電棟(45kAV)飯場棟、送信棟、通信棟、電離棟、地磁気変化計室の6棟だったが、通信棟、電離棟と地磁気変化計室は、南極観測開始当初に準備されたが、1次隊では基地へ持ち込めなかった建物である。 越冬観測に関わる観測装置は、直視磁力計など基地に残されていたいくつかの装置を再稼働せざるを得ないものがあったが、各部門とも大きな問題はなく、順調に推移しその後の観測につながる通年観測が実施された。KD60雪上車のテストについては、海氷の状況が安定せず、春先になるまで大陸への揚陸ができず、残念ながら長距離の走行のテストはできなかった。越冬観測に参加した筆者の個人的な7次隊観測の評価としては、本格観測の幕開けとの位置づけるよりは、6次隊以前の観測と8次隊以後の本格観測との橋渡しをする段階に位置づけることが妥当かと思われる。8次隊による食堂棟や観測棟の新設、雪上車や設営用車両の充実などにより、名実ともに本格観測が始まったというべきだろう。 ★ 南極再開の裏話 中尾 正武氏(元NET報道部、中曽根、村山氏を極点視察に同行) 日本の南極観測は、昭和35(1960)年の閣議で、第6次隊で打ち切りと決まった。同37年4月、「宗谷」は最後の航海を終え、帰国した。基地再開、観測継続を願う関係者は多かったが、昭和基地の戸締り役を果たした第3次、第5次越冬隊長の村山雅美さんは、特に再開への意欲を強く抱いていた。そして選び抜いた方法の一つが、自民党の実力者である中曽根康弘元科学技術庁長官、長谷川峻前文部政務次官(官庁名や役職名は当時のまま)をアメリカ科学財団(NSF)の招待の形で、南極大陸に送り込み、南極の実情と観測再開の意義を知ってもらうことであった。 米国の南極向け輸送機が発着するニュージーランドのクライストチャーチまでの往復旅費や滞在費などの経費が必要であった。村山さんは海軍予備学生時代の同期生が部長役でいるNETに話を持ち込んだ。そして山男であり、日本山岳会会員である報道部員の私が同行・取材を命じられたのであった。こうして中曽根、長谷川、村山、私の4人による南極行が始まった。 37年11月14日出発、バンコク、シドニー経由クライストチャーチに着き、3日待機のあと米国のソリ付き大型輸送機グローブマスターでマクマード基地に到着した。出発前夜には盛大な壮行会を開いた。マクマード基地では占領軍で在日中に日本婦人と結婚したという人が面倒を見てくれた。 南極点の米基地には11月20日に着いた。 南極点に日の丸が掲揚された。二人の代議士は、南極の壮大な自然に触れ、アメリカをはじめとする各国隊の活動ぶりをしっかり見聞して、12月6日に帰国した。 帰国した二人の活躍は目覚しかった。12月11日の自民党政調会の文部、国防両部会と科学技術特別委の合同会議が早くも開催され、昭和基地の再開、同基地の永久化、などが議論されている。3 8 年度予算には、再開予備費として5000万円が計上された。そして新砕氷船の建造計画、輸送担当は防衛庁などが決まっていき、38年8月20日の閣議で観測再開が正式決定した。 第7次隊を乗せた新砕氷船「ふじ」が出港したのは、昭和40年11月20日である。4人が南極に向かってから3年後のことであった。 (深瀬記) <以上、南極OB会報 第17号から引用> |