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 第9回「南極の歴史」講話会 (2012年3月31日)


★矢田喜美雄氏とその時代
 村越 望
  (1次越冬、4次越冬、9次夏、
  10次夏、12次夏、15次越冬)

 
 

★宗谷時代のペリコプター輸送オペレーション
 渡辺 清規
  (3次、4次、5次、宗谷飛行士
   6次航空長)

 
案内資料:案内資料  当日の写真写真を見る


南極観測隊初期の話題。IGY時代の南極探検構想の立案者である矢田喜美雄氏について、時代に向き合ったその人となりを村越望氏が紹介。宗谷時代の輸送に活躍したヘリコプターについて飛行士・航空長として全行動に参加された渡辺清規氏の講演。


★「矢田喜美雄氏とその時代」   村越 望(1次冬、4次冬,9次夏,10次夏,12次夏,15次冬)

 矢田喜美雄氏は、朝日新聞の記者で、日本の南極観測を発案した人だ。朝日新聞はこの発案で動き出し、南極観測は国の事業となった。
 1913年、大正2年、山梨県八代郡で生まれた。国際会議で日本の南極観測参加を承認させ、初代観測隊長となった永田武東大教授と同じ年生まれである。のち二人は両雄並び立たずの仲になり、矢田氏が身を引いて南極観測には参加しなかった。
 矢田氏は早大高等師範学校に入り、182センチの長身を生かし陸上競技の走高跳に優れ、昭和11(1936)年のベルリン・オリンピックの走高跳5位に入賞した名選手。卒業後早大に進み、師範学校の義務として山梨の小学校の教師をしている。教え方は乱暴で、体操の時間に木登りをさせたり、土手を転がしたり、工作で車を作らせ、自分が乗って生徒に校庭を走らせた、などと言われている。
 また昭和16年11月末から17年4月末まで、朝日新聞夕刊の連載小説、藤沢恒夫の「新雪」のモデルと言われている。主役は月丘夢路、水島道太郎。映画化され、灰田勝彦が「紫けむる新雪の 峰ふり仰ぐこのこころ…」の「新雪」主題歌を歌った。
この時期、戦争が始まり、最初は調子がよかったが、17年4月18日には空母ホーネットから飛び立った米機で日本は初空襲を受け、その頃から次第にガタガタになっていった。
 大阪の小学校の先生をしている時、1928年、昭和3(1928)年のアムステルダム五輪で、三段跳びで優勝し、朝日新聞大阪の運動記者をしていた織田幹雄氏を訪ねて相談、昭和17年大阪の朝日新聞に入社している。短期間の召集された時期がある。その後東京に移り、社会部記者として活躍する。昭和24年、公務員の大量人員整理が始まり、当時の国鉄でも大量の人員整理が進められ、7月6日に下山定則総裁が常磐線北千住―綾瀬間の線路上で轢死体で発見される事件が起きた。この事件は死後轢断・生体轢断、他殺・自殺と見解が対立、いまだ未解決だ。この年は7月15日に三鷹事件、8月17日には松川事件と3つの国鉄関連事件が起きるなど、騒然とした年である。
 下山事件は、地検側と警視庁捜査二課が他殺説をとったのに対し、警視庁捜査一課は自殺説だった。このため毎日新聞が自殺説、朝日新聞が他殺説など、新聞の見方も二つに割れた。矢田記者は東大法医学教室に「研究生としてくれ」と申し出て、南原総長が「面白いじゃないか」と言ったとかで、木戸御免となって入り込み、同教室が死後轢断と断定したこともあり他殺説をとった。矢田は引退後「謀殺 下山事件」を出版している。
矢田記者は、昭和30年3月14日から13回にわたり、朝刊社会面に「北極と南極」という連載記事を書いている。その取材中に海外文献からIGY(国際地球観測年)の開催とその関連の南極観測のことを知る。日本学術会議にも国際会議から招請状が来ていたのだが、あまりに大きな事業計画のため、取り上げられていなかった。
矢田は、南極の話を信夫韓一郎専務に持ち込み、社内で事業計画の検討が始まった。矢田記者は半沢朔一郎「科学朝日」編集長(後に科学部長)と共に茅誠司(学術会議会長)、和達清夫(気象庁長官)、長谷川万吉(京大教授)、甘利省吾(電波研所長)、武藤勝彦(国土地理院長)、岡野澄(文部省学術課長)らを回り、計画の実現に当たった。この年の9月27日、朝日新聞社は、学術会議がIGYの事業として南極へ学術探検隊を派遣するに当たり、この歴史的事業に参加し、全機能を上げて後援するとの社告を出した。そして11月4日、閣議決定により南極観測への参加が正式決定したのだった。
 朝日は、社内に@住居及び付属建物A食糧及び装備B医療、厚生などの専門委員会を設けて、準備を進めている。特に力を入れたのが基地建設で、31年1月25日から涛沸湖上で朝日主催の北海道訓練を開催、永田武、西堀栄三郎の正副隊長をはじめのちに隊員となった多くの人たちが参加して、設営訓練や行動訓練まで実施した。この訓練の中で、永田隊長と矢田氏との間で軋轢が生じたようで、南極観測にとって永田隊長の必要性を認めた矢田氏が、自分から身を引いて南極観測には参加しないことにした、と伝えられている。
 朝日新聞は、多くの隊員を南極に送り出しているが、第1次の「宗谷」に乗ったのは通信・作間敏夫、航空・藤井恒男ら4人、報道・高木四郎氏。藤井氏は早大ラグビー部の出身で、まとめ役型。第1次越冬隊に入り、隊をうまくまとめて大任を果たした。



★「宗谷時代のヘリコプター輸送オペレーション」  渡辺清規(3次、4次、5次、宗谷飛行士、6次航空長)

 第2次隊は、氷状が厳しく米砕氷艦の救援を受けても越冬隊を基地に送りこめなかった。このため3次隊からは大型ヘリコプターによる空輸を主にし、状況により雪上車輸送を併用することになった。宗谷を改装して大型ヘリ用甲板を船尾に作り、大型ヘリ、シコルスキーS58 を2機搭載することになり、搭乗員、整備員を全国の航空基地から集めた。
昭和33年8月7日、私は宗谷飛行士の発令を受けた。着任したもののまだヘリはなく、海上自衛隊の同機種で訓練を受け、間もなく新三菱で完成したヘリのテストと乗員免許を受け、11月1日に宗谷に搭載、小型ヘリも積んで同12日に東京港を出港した。
シンガポール、ケープタウン経由、1月2日氷縁着、進入開始。14日に無人の基地から163キロの地点から空輸を開始することになった。201号機は福田航空長らで飛行甲板から、202号機は私が操縦で、氷上ヘリポートから出発する計画であった。ヘポートは、角材の上に厚い板を敷きつめた4間×2間の板敷きを「二の字型」に並べたものであったが、連絡のミスから私はその作成前に直接氷上に降りてしまった。静かに機の全重量を掛けていったが大丈夫。念のため機体をゆすってみた。その瞬間、機がガクンと右に傾いた。私は反射的にピッチレバーを一杯上げると、機は空中に飛び上がり事なきを得た。
一旦船上に帰った後完成したヘリポートに降り、村山越冬隊長、武藤、大塚、清野、荒金、芳野さんらの隊員を乗せて飛び立った。2機編隊で昭和基地へ向かった。快晴、東の風5m、視界良好。「基地近くの氷の上に熊みたいな動物が2匹いる」と通信室に知らせたら「南極に熊がいるって!」と笑い話になった。隊員たちが基地に降り立ち、犬がいるぞと大喜びした。これがあとでタロとジロだと判った。
 16日の帰り便で天候悪化、基地に引き返し、強いブリザードが来て、10日間ほど足止めになった。ヘリをくぼ地に移し、杭を打って固定し、転覆しないように石を機内に入れて重しとし、機内で当直もした。滞在中入浴の日があり、発電棟内の風呂の入口の暖簾は「女湯」と書かれていた。基地建設に、隊員は朝7時から夜8時まで、よく働いた。8時半に夜食が出た。2月5日に輸送打ち切り。58便、57トン、飛行距離平均160キロ、宗谷の能力はそれくらいが限度だった。
 3次の経験でまた宗谷を改装した。@ヘリ搭乗員を3クルーから4クルーへAブリッジの後ろに航空指令室を作り船との一元化運用へB機体の両側に付いていたフロート装着用フレームが荷物の積み下ろしの障害となっていたのでこれをはずした。これで速度も5〜6ノット速くなったC機体整備のため機体吊り揚げ装置を設置した、などである。
 4次は、ソ連のオビ号が昭和基地に航空用燃料を置きたいというので、行動を共にした時期があったが、氷海を一気に入って行くオビ号の強さを見た。オビ号にはピアノが置いてあったし、女性の乗員が何人かいた。天気はおおむね良好で、基地から85キロ、3次の半分の距離で空輸した。103便、126トン、それに雪上車による輸送が28トンという成果を挙げた。
5次は、新三菱小牧工場で整備中の202号機が、耐空検査中に事故を起こし、横
転して大破した。航空局の検査官が同乗していて、検査官が下、私が上になっていた。宗谷の出港までの修理は不可能なため、同型の代替機を防衛庁から借りて203号機とした。輸送は3次にわたり行われ、計98便、121トンだった。
 6次で昭和基地を閉鎖することになった。その主な理由は@宗谷が老朽化して、継続して使用することが不可能になったことA航空要員が足りなくなったこと、などだ。この年は氷状が厳しく、基地から180キロくらいの遠距離空輸となった。撤収作業の要員と食糧などが送り便で、帰り便は越冬隊員や持ち帰り機材だった。また測量用のセスナ機を基地に送り込んだ。作業が終了し、セスナ機を持ち帰ることになり、機体と翼を離した。翼の梱包が不十分で、吊り上げたら風にあおられて揺れ、基地から10キロのあたりでヘリの機体にぶつかった。やむなくそこに降ろして、基地に戻り、梱包したばかりの雪上車をまた出して回収してもらった。梱包をやり直す余裕がなく、やむなく翼を半分に切断し、機内に収容して持ち帰った。
昭和基地の夏は夜がなく、ヘリの運用は天気さえよければ、24時間でも48時間でもできた。昭和基地周辺は低気圧がよく通り、その北方では南極前線が停滞してよく雪を降らせ、霧を発生させ、機体の姿勢や高度の判別が出来ないようなホワイトアウトも経験した。氷原の上に出ている氷山の形にはそれぞれ特徴があり、航路の確認に利用でき、基地への道案内であった。

<以上、南極OB会報 第16号から引用>