第7回「南極の歴史」講話会 (2011年6月18日) |
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★1937年山脈の探検・白瀬南極探検隊の地質資料について
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案内資料: 当日の写真: 第7 回「南極の歴史」講話会が一般公開で行われた。4次で越冬し、21次の観測隊長を務められた木崎甲子郎氏が「1937年山脈の探検・白瀬南極探検隊の地質資料について」と題して1時間20分にわたり、4次隊での経験や大和山脈調査、など裏話も含め講話を行った。 ★1937年山脈の探検・白瀬南極探検隊の地質試料について 木崎甲子郎(4次冬、21次夏隊長) 「宗谷時代」の日本南極地域観測隊(JARE)越冬隊は果敢に内陸進出を図った。1次隊のポツンヌーテン探査、3 次隊の「まぼろしのANARE 山脈」探査に続き、4次隊はノルウェー隊が望見したという内陸山地の実地踏査を企てたのである。 1936〜37年にノルウェーのラルス・クリステンセンが東南極大陸の東経50〜80度の海岸線を飛行し、プリンス・ハラルド海岸を発見した折、内陸に山脈の存在を見出した。これがいわゆる「1937年山脈」である。 夏旅行を前に、内陸へのルート偵察が行われたが、当時は「白瀬氷河」落ち込み域の氷床地形なども未知の時代であり、クレバス帯に迷い込みながらの大苦戦を強いられたという。しかし、「1937年山脈」への接近路は見出され、まさにこれから出発という時に、福島隊員のブリザード中の遭難事故が起こり、一時は探査行の断念も検討されたが、鳥居越冬隊長の勇断で実施されることとなった。 折から、ブライド湾に基地を設けていたベルギー隊の航空機が昭和基地に飛来し、彼らもブリザードに巻き込まれて遭難寸前という状況もありその対応には日本隊も大いに協力するが、飛び立った航空機は先に「1937年山脈」の空撮を行い、山地の主要な峰や氷河に名前を付けられてしまうという先陣争いともいえる出来事があった。 しかし、4 次隊の内陸探査は山地の正確な位置確定、全域の地質調査、最高峰への初登頂など大きな成果をあげ、成功裏に終わった。この山地は後に「大和山脈」名付けられ、その最高峰は福島岳と命名された。 講演では、こうしたわが国最初の本格的な内陸探査、山地探査での出来事が当事者隊員によって詳しく語られ、あらためて感銘を受けたのである。 また、講師の木崎甲士郎琉大名誉教授は北海道大学理学部時代に白瀬南極探検隊が持ち帰ったペンギンの胃の中から採集された岩石試料(薄片試料が東大理学部地質学教室に保存)の鏡下鑑定研究を行い「白瀬隊によって採集されたキングエドワード七世陸地の岩石に関する覚え書」(南極資料、第5号、1958)として報告されており、その内容について話された。(紹介文:渡辺興亜) <以上、南極OB会報 第14号から引用> http://www.jare.org/jareOB_Hc/ob_magazine/ |