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 第6回「南極の歴史」講話会 (2010年12月4日) 


★南極OB会のアーカイブ事業について
 小野 延雄  
(3次越冬)


 

★写真で綴る”宗谷時代”の南極観測
 大瀬 正美  
(1次夏、2次夏、3次夏、4次越冬、7次夏、8次越冬、12次越冬、19次夏) 


 

★超高層物理(オーロラ)観測の歴史
 国分 征   
(7次越冬、13次越冬、18次夏、32次夏)

 案内資料:案内資料  当日の写真写真を見る


★南極OB会のアーカイブ事業について  小野延雄(3次冬)

 南極OB会アーカイブ委員長の小野延雄氏から「南極OB会のアーカイブ事業について」と題した講演があり、国際地球観測年(IGY)参加に始まる日本の観測隊の歴史を次世代に残すことを目的として、アーカイブ委員会が行っている資料の収集方針について語った。
 小野氏によると、隊次別資料はそれぞれの隊次幹事が対応し、隊次を超える観測事業資料とOB会会員の物故者遺族からの寄贈資料は一括して委員会が対応し、記録史料・映像資料・現物小物などの取捨整理作業を行っている。最終保管場所は国立極地研究所とすることで、極地研アーカイブス室と協議しているという。
記録史料の一例として、日本の観測隊発足のころの新聞や雑誌のページが紹介された。また、映像資料には解説文が有用であり、当時を知るOBたちのコメントが必要なことが述べられた。


★写真で綴る「宗谷時代」の南極観測  大瀬正美(1次夏、2次夏、3次夏、4次冬、7次夏、8次冬、12次冬、19次夏)

第一次観測隊員であり、初代の昭和基地郵便局長でもあった大瀬正美氏が、「写真で綴る『宗谷時代』の南極観測」と題して講演し、数々の写真を披露した。
大瀬正美さんは、南極で撮影したおびただしい数の写真の中から、宗谷時代のモノクロ写真40余枚を紹介した。永田隊長、松本船長、村山越冬隊長など宗谷時代の懐かしい方々が登場し、暴風圏、初の氷海、基地建設、タロ、ジロなど、南極観測黎明期の写真を紹介した。彼のフィルムは、貴重な財産として引き継がれるであろうと、確信した。
大瀬さんは86歳、1s、2s、3s、4w、7s、8w、12w、19s(sは夏隊、wは越冬)と8回昭和基地に行き、うち3回越冬というベテラン隊員である。更に南極半島への観光船のガイドを勤め、現在の南極にも通じている。
私は3次,7次でご一緒した。彼のことは「大瀬さん」とは呼ばない。愛称は「半五郎さん」。有名な清水一家の大瀬半五郎からである。彼は電波研からの隊員だが、ここぞというところでは、必ずカメラ持参で細身の体を現わした。そして船内に暗室を持っていた。
当時はモノクロフィルム中心で、カラーはコダクローム、さくらなどのネガが出始めていた。自分で現像して焼付け、通信室の電送機のドラムに巻き付け、通信士にお願いして発信する。電離層の反射を利用する時代で、電送は1週間に1日だけ、しかも短い時間に限られていた。電離層の機嫌が悪い時は、着信の画面は筋だらけだった。
こういう時代だったから、大瀬さんの存在は助かった。蜃気楼を撮る時、「シャッターと絞り、いくつ?」と聞けるのだ。暗室に私の現像タンクを置かせてもらった。何より助かったのは、報道カメラマンもやってくれた事だ。この写真を見てください。
大瀬さん撮影 西田、沢、深瀬氏が橇を曳く図昭和34年1月18日、文部省と海上保安庁が、報道各社に配った写真。発信位置は南緯67°43′、東経39°56′、(タロ、ジロ発見の4日後)。写真説明は「ヘリポートまで犬ぞりを使って物資を運ぶ、右から西田、沢、深瀬隊員(大瀬隊員撮影)」となっている。報道隊員の私が働き、大瀬さんが撮影している。
この写真は全国各紙に大きく載った。「あいつ、犬の代わりやってんだ」とか、「かわいそうに、人間が橇を曳くのね」とか、帰国したら、「一時期話題になったよ」と同僚から知らされた。
大瀬さんの記録写真は、公私共に貴重な資料である。(深瀬和巳記)


★超高層物理(オーロラ)観測の歴史  國分征

南極OB会副会長の国分征氏が「超高層物理(オーロラ)観測の歴史」と題して講演し、昭和基地からロケットを打ち上げて、直接オーロラを観測した初期の時代の歴史を中心に、オーロラ観測の概要とその成果を語った。
国際地球観測年(IGY)の11の観測項目、気象、地磁気、オーロラ、大気光、電離層、太陽活動、宇宙線、緯度・経度、氷河、海洋、地震、重力、大気放射能のうち、超高層物理関連の項目が7 つを占めていた。また、昭和基地は、極光帯直下に位置することが予測されていたこともあり、初期の段階から超高層物理観測は、重点的な研究観測であった。IGY 観測に備えた観測機器の持ち込みは、2 次隊越冬断念のためIGY 期間には間に合わず、3 次隊から始まった。3次隊では、全天カメラ、分光計、直視磁力計、イオノゾンデなどが設置され、オーロラの分類、出現頻度 極光帯の位置、オーロラスペクトル、地磁気変動の観測が行われ、地磁気擾乱、天頂オーロラ光度とスポラディクE の相互関係や氷冠雪氷の電波伝搬特性など、先駆的な研究成果につながった。
砕氷船「ふじ」の就航と恒久化を目指した昭和基地再開(7 次)と8 次の観測棟の新設などの基地整備にともない、全天カメラ、分光器 多色フォトメタ−、オーロラレーダー、リオメタ−、地磁気短周期変動(2mHz〜5Hz)、自然電波観測(300Hz〜20kHz) (7 次)、子午線掃天フォトメタ−、自然電波の偏波・到来方向観測(8次)などが導入され、主な超高層観測が整ってきた。9 次以降の「しらせ」就航までの主な観測をあげれば、9 次:気球観測(オーロラX 線)、11 次:プロトンオーロラ観測掃天フォトメタ−、12 次:オーロラ観測超高感度テレビカメラの導入、17 次:衛星観測地上局、18 次:無人多点観測、19 次:VLF 電波方向探知(3 点観測)などがある。
このような観測の中から、プロトンオーロラの出現形態、オーロラ動態やVLF 放射に関するユニークな研究成果が公表されている。
国際共同観測としては、1977、1978 年にフランスとの共同により、GEOS-I 衛星(静止衛星軌道投入失敗)に呼応したアイスランド−昭和基地共役点観測が実施された。
その後、1983 年にアイスランドに観測点(3カ所)を設置し、以後、継続的に共役点観測が行われている。
南極地域におけるロケット実験は、フランスも実施したが、越冬中に実験を行ったのは我が国だけである。昭和基地でロケット実験を行うという構想は、1963 年頃から検討されていたらしい。具体的な検討は、1967 年頃から始まり、ロケット基地施設の建設は、10 次から行われた。11 次では発射台、ランチャー、レーダー設備などの飛翔体実験に必要な施設が整備され、S160JA2機を試射した。以後次の3 期にわたり、越冬ロケット実験が行われた。第1 期:12−14 次(1971−73)、第2 期: 17−19 次(国際磁気圏観測計画:1976−78)。この期間の打ち上げ数は、S160JA4 機、S210JA31 機、S310JA7 機である。第3 期:25−26 次(1984−85)には、S310JA5 機 MT135JA11 機が打ち上げられ、MT135JA の5 連射実験も行われた。オーロラ発光層の直接観測は、S310により実現された。
「しらせ」就航以後(25 次〜)は、衛星観測用大型アンテナなど施設の大型化も可能になり、それとともに点から面への観測の展開が計られるようになった。南極周回気球(ポーラーパトロールバルーン(PPB))実験は、南極地域の夏期に安定して吹く東風を利用して大型の気球を南極大陸に沿って周回させ、宇宙線、オーロラX 線、磁場、電場、オゾンなどを、広域、長時間にわたって観測しようとするもので、周回観測に成功している。大型短波レーダー観測は、短波帯電波を電離層に向けて発射し、その干渉性後方散乱エコーのドップラースペクトルから 極域電離層プラズマ対流を広範囲(射程約3600km 角度53 度)にわたり測定する。これは1995 年から始まった南北両極域全体にわたる国際共同観測 ネットワークSuperDARN の一環で、現在も続けられている。(国分 征記)

<以上、南極OB会報 第12号から引用>
http://www.jare.org/jareOB_Hc/ob_magazine/