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白瀬南極探検隊記念館と白瀬矗の生家(秋田県にかほ市)

白瀬南極探検隊記念館

白瀬南極探検隊記念館

白瀬矗の生家

金浦勤労青少年ホームは海を見渡す高台にあり、そのすぐ裏手に白瀬矗の生家「浄蓮寺」とお墓がありました。墓碑は元総理大臣の岸信介が揮毫し建立したもので、三角形の自然石は南極の氷山を表しているそうです。

(suzu)

杉村楚人冠記念館(千葉県我孫子市)

杉村楚人冠(本名 広太郎)は、明治末期から昭和前期の東京朝日新聞で活躍したジャーナリストだそうです。独特の皮肉とユーモアにあふれた文章は人気を博し、まだ現役の文筆家として活躍しているうちから全12巻の予定で全集が刊行され、さらに増刊されて18巻にも及ぶそうです。

白瀬矗の南極探検を、朝日新聞社から自らもペンで支援を続けた杉村楚人冠。
杉村楚人冠記念館の展示は、旧杉村楚人冠邸の母屋をそのまま利用して、楚人冠が書いた記事、白瀬や船長野村直吉の書簡が展示されてました。

夏期企画展「白瀬中尉の南極探検と楚人冠」

和室と、茶の間の二部屋が展示スペースとなっていました。

楚人冠は、外電および通訳の担当として東京朝日新聞に採用され、ピアリの北極到達疑惑に関する記事を日本でも報じたそうです。

白瀬矗や野村船長からの書簡が展示されてました。

解説書500円、40ページあり、展示品に関する解説が細かく載っています。書簡や、記事のスクラップから読み取れる背景などが詳しく解説されていました。

楚人冠は、義援金集めの講演会で説明したり、南極探検の連載記事を書いたり、野村船長が一時帰国したときも特派員として長崎に迎えに行き神戸まで同船して聞いた内容を記事にまとめるなど、南極探検へ並々ならぬ支援をしていたようです。

(T.ABO)

野村直吉船長航海記―南極探検船「開南丸」

白瀬南極探検隊「開南丸」野村直吉船長の航海日誌と挿絵を公開。南極OB会が航海技術の解説、自然資料等を加えて編集。白瀬南極探検隊の南極大陸到達にこの人あり。公式記録「南極記」とは別の視点からの白瀬南極探検隊記録。2012年度海運集会所特別賞受賞。

白瀬日本南極探検隊100周年記念碑(東京都立川市)

1912年1月28日、白瀬日本南極探検隊は南極「大和雪原」に到達した日です。
その日の偉業を記念し、ちょうど100年後の2012年1月28日に、国立極地研究所のキャンパス(立川市)に記念碑が建立されました。
記念碑には建立の経緯と白瀬隊長他30名の顔写真が刻まれています。

極光
白瀬日本南極探検隊の顔

白瀬日本南極探検隊
秋田県出身のを隊長とする「白瀬日本何局探検隊」は1910年(明治43)年11月28日, 芝浦埋立地で開催された盛大な壮行会の後, 翌29日僅か204トンの木造機帆船「開南丸」で南極点を目指し出帆した. 1912(明治45)年1月16日, 南極ロス海鯨湾に到着, 白瀬隊長率いる突進隊は, 1月28日南緯80度05分, 西経156度37分に到達し, 付近一帯を「」と命名. また, 沿岸隊は岩石や生物標本など, 多くの学術資料を収集した. 南極点到達には至らなかったものの, 6月20日に全員が無事帰国し, 南極に関する多くの知識をもたらした.
 この探検の成功は, 国際地球観測年(1957年~1958年)における日本の南極観測への参加に際しての大きな礎となった.
 今般, 大和雪原到達100周年を迎えるにあたり, 白瀬日本南極探検隊の偉大な功績を広く後世に伝え, 永く歴史に留めるため, この碑を建立する.

東京都立川市緑町10-3
多摩モノレール 高松駅下車、徒歩10分
JR立川駅北口から徒歩25分

(Kanda)

南極探検発祥の地(東京都港区)

南極探検記念碑

南極さがし第1弾は、ズバリ日本の南極探検発祥の地!
スタートはJR田町駅。芝浦口を出たら海方向にひたすら歩き、高速道路をくぐったら左折します。そこにひっそりとあるのが埠頭公園。その入り口にペンギンのブロンズ像と開南丸のレリーフ、そして白瀬矗隊長以下27名の名前が刻まれた記念碑が建っています。そう、ここは1910年に白瀬隊を乗せた開南丸が出航した場所。日本人初の偉業を後世に伝えるべく1936年に建てた記念碑だそうです。
・・・とはいえ、周りはビルや倉庫群、横を高速道路が走っていたりして正直あまりピンとこない。が!かつてこの辺りは青い海。そのずっとずっとずーっと先に広がる未知の大陸への大きな夢を抱き、白瀬隊はここから小さな帆船で第一歩を踏み出したんですね。
ということで、この小さな公園すべてが南極がテーマなんです!

埠頭公園の遊具やオブジェ

ペンギンもいたり・・・
池のような場所にはペンギンたち。
氷山の上から遊具や砂場で遊ぶ子どもたちを見守っています。


開南丸もあったり・・・
遊具になった開南丸。近代的ですが温もり感じる木製です。
その周りにはクジラとか海の仲間たちもたくさん!

初代しらせのスクリュー

背丈よりも大きいプロペラ
海上自衛隊が港区に貸し出しているホンモノです(4枚で1つのスクリュー)。
1982~2007年まで日本と南極を行き来してたんですね。
よく見ると先端にイボイボ?
この数個のボルト、実は複数のスクリューが高速回転するときにブレを防止するために取り付けられたものだそう。専門家に聞いたレア情報でした。

【埠頭公園】
港区海岸3丁目14番34号
新都市交通ゆりかもめ「芝浦ふ頭」駅より徒歩4分
JR「田町」駅より徒歩15分

(k.suzuki)

白瀬矗のお墓(愛知県吉良町西林寺)

南極探検隊長 大和雪原開拓者の墓

2011年9月4日、台風の影響でじゃんじゃん降りでしたが、吉良の瀬門神社社務所で、探検家白瀬矗をしのぶ会がありました。

2011年は南極へ出発してから100周年、そして、2012年は南極・大和雪原へ到達してから100周年です。

事情もわからずに行ってしまったので、白瀬隊長顕彰会の方々にはご迷惑だったかもしれませんが・・・
毎年、命日(9月4日)に近い9月の第1日曜にしのぶ会を続けているそうです。
100周年記念行事をきっかけにして、関係図書を何冊か読みました。探検を志してからの準備、探検の最中、後始末と、とにかく強い意志を持ち続けていなければ、とてもできない偉業です。奥さん・家族もたいへんだったでしょうね・・・

浄蓮寺(生家、にかほ市)のお墓の墓石と形が似ていますね。

お墓の前の地面には、南極大陸の地図が横たわっています。
「大和雪原」の場所がわかります。
初代”しらせ”のスクリューブレードです。
ボルト状のイボイボが付いているのは、埠頭公園(東京)の項で説明済みですね
 白瀬南極探検隊長から学ぶこと
1.少年時代の夢を実現したこと。
2.自分を信じ、くじけなかったこと。
3.仲間を信じ、約束をかたく守ったこと。
西尾市教育委員会

(おさだ)

白瀬南極探検隊100周年記念講演

2011年3月19日、「白瀬南極探検隊100周年記念講演-日本最初のドキュメンタリー記録映像の公開-」が、東京都千代田区の一橋講堂で開催されました。

講演会は以下の2題の講演とドキュメンタリー映画「白瀬南極探検隊」の上映会が行われました。
小野 延雄「白瀬南極探検隊の足跡」
柴田 鉄治「白瀬隊から現在の南極へ」
また会場のロビーではパネル展示が行われました。

まぼろしの大陸へ 白瀬中尉南極探検物語

白瀬矗(のぶ)が「開南丸」で南極を目指したのは1910年11月29日のことでした。白瀬を含む8人の探検隊員と18人の乗組員、29頭のカラフト犬を連れての旅立ちでした。長さ30メートル、幅7メートル、204トンの木造帆船であったといいます。こんな小さな船で南極を目指すなど気違い沙汰だと取りざたされるなか、白瀬は長年の夢を実現させるべく当時は未知といわれた南極大陸を目指したのでした。探検家の多くが南極点一番乗りを競った時代でした。1911年の12月にノルウェーのアムンセン隊が、1912年1月にイギリスのスコット隊が南極点に到達しています。白瀬隊は南極点に立つことはできませんでしたが、1912年1月、ロス海の棚氷上の南緯80度5分、西経156度37分に日章旗を立て、その一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し帰途についたのです。この本はそのような不屈に生きた白瀬矗の幼少期から85歳で生涯を閉じるまでを描いた児童書です。著者の池田まき子さんは「一人でも多くの方に探検一筋を貫いた白瀬矗の生き方、未知の世界に挑む探検精神などを知ってほしい」と言っています。来年(2012年)はその白瀬矗が「大和雪原」に立ってから100周年に当たります。お子様やお孫さんたちと共に白瀬矗の生涯に思いをはせてみる良い機会ではないでしょうか。

(福谷博,会報12号)

第3回「南極の歴史」講話会

2009年9月26日、東京都千代田区の日本大学理工学部にて、第3回「南極の歴史」講話会が開催されました。「白瀬矗の求極人生」をテーマに以下の3題の講演が行われました。
小野 延雄「100年前の北極点到達報道」
楠 宏「北極(アラスカ)体験と阿部敬介」
湯川 武弘「開南丸出帆の地・芝浦埠頭公園記念碑」