戻る白瀬矗のお墓 (愛知県吉良町・西林寺)
 瀬門神社でしのぶ会

2011年9月4日、台風の影響でじゃんじゃん降りでしたが、吉良の瀬門神社社務所で、探検家白瀬矗をしのぶ会がありました。

2011年は南極へ出発してから100周年、
そして、2012年は南極・大和雪原へ到達してから
100周年です。

事情もわからずに行ってしまったので、白瀬隊長顕彰会の方々にはご迷惑だったかもしれませんが・・・

毎年、命日(9月4日)に近い9月の第1日曜にしのぶ会を続けているそうです。

100周年記念行事をきっかけにして、関係図書を何冊か読みました。
探検を志してからの準備、探検の最中、後始末と、とにかく強い意志を持ち続けていなければ、とてもできない偉業です。奥さん・家族もたいへんだったでしょうね・・・


 ところで、どこにある?
愛知県西尾市吉良町瀬戸 西林寺・瀬門神社の境内です。
名鉄西尾線上横須賀駅下車徒歩40分・・だそうです。

西尾市観光協会のホームページ↓から、旧吉良町観光協会のホームページ↓
http://www.240kanko.com/
http://www.240kanko.com/kira/kanko/toppage/index.html

ちなみに、旧吉良町は、にかほ市と姉妹都市。

 南極探検隊長 大和雪原開拓者の墓

吉良町の西林寺、瀬門神社に隣接してあるお墓
 お墓の前には・・

お墓の前の地面には、南極大陸の地図が横たわっています。
「大和雪原」の場所がわかります。
 お墓に向かって左に、白瀬南極探検隊長墓碑建立の由来

 日本人として最初の南極探検を企て、南緯八十度五分の前人未踏の地に至り、一帯を「大和雪原」と命名し、日章旗をうち立てた世紀の偉人白瀬矗氏は、奇しくも晩年を第一次南極観測隊長永田武氏の郷里、現在の豊田市に住み、昭和二十一年九月四日八十五年の生涯を終えられた。
 かくて、やす夫人は、昭和二十二年末夫君の遺骨を抱き、次女タケコ孫喜子と共に、故あって吉良町(当時横須賀村)瀬戸に転住しここを永住の地と定め、本籍を当町に移されました。
 しかし、やす夫人は昭和二十六年四月病を得て死去され、タケコさんは、両親のお骨をここ西林寺の墓地に仮埋葬して、昭和二十七年喜子さんと共に、東京に移住された。
 昭和三十二年三月白瀬隊長の甥にあたる秋田県金浦町の白瀬知燈氏が来町され、分骨を請われて初めて白瀬隊長のお骨が残されていることを知った。
ただちに関係者並びに、吉良町史跡保存会は、この地を浄域と定め、元侍従長藤田尚徳氏の揮毫を得て。墓碑を建立した。
 本年墓域の整備にあたり、改めて由来をここに明記する。
 平成三年九月  西尾市教育委員会   と、書いてあります。

浄蓮寺(生家、にかほ市)のお墓の墓石と形が似ていますね。
 お墓に向かって右には、スクリュー

初代”しらせ”のスクリューブレードです。

ボルト状のイボイボが付いているのは、埠頭公園(東京)の項で説明済みですね

http://www.jare.org/Repo10/inf5.cgi?mode=main&cno=1
 白瀬南極探検隊長から学ぶこと

1.少年時代の夢を実現したこと。
2.自分を信じ、くじけなかったこと。
3.仲間を信じ、約束をかたく守ったこと。

西尾市教育委員会
(おさだ)